2021-01-25 第204回国会 衆議院 予算委員会 第2号
では、何のために八十億円以上をかけて、これは、橋本政権のときに古川貞二郎副長官が一生懸命、官邸と公邸を一体として危機管理として整備したんじゃありませんか。二十四時間情報収集できます。総理の健康管理のために医務官も常駐しているじゃないですか。そういうところに入らない総理というのは、細川政権以降、あなたと安倍総理だけなんですよ。 では、公邸を潰してくださいよ、あなたに必要ないと言うんだったら。
では、何のために八十億円以上をかけて、これは、橋本政権のときに古川貞二郎副長官が一生懸命、官邸と公邸を一体として危機管理として整備したんじゃありませんか。二十四時間情報収集できます。総理の健康管理のために医務官も常駐しているじゃないですか。そういうところに入らない総理というのは、細川政権以降、あなたと安倍総理だけなんですよ。 では、公邸を潰してくださいよ、あなたに必要ないと言うんだったら。
○江田(憲)委員 こう見渡してみても、総理ほか橋本政権で初当選の方は大勢いらっしゃいますし、党の方でも総務会長、政調会長、選対委員長。今、本当に残念なことに亡くなられましたけれども、草葉の陰で橋本総理もお喜びなんだろうなと御推察申し上げます。
初当選が橋本政権ということで、当時、橋本総理の御指示で、私も多少、総理の初めての選挙をお手伝いをしたこともございますし、私、不肖江田憲司がここに、政界に身を置いているきっかけをつくっていただいたのも菅総理ということで、今は政治的立場は異にいたしますけれども、ある意味、感慨深いものがございます。
御指摘の官邸ホームページに掲載されております日本国憲法下の三権分立という図につきましてでございますが、確認できます限りで、平成十年、一九九八年、橋本政権のころから同様の図が掲載されているものと承知してございます。
その後、橋本政権でのクラスノ合意だとか、あるいは小渕政権でのモスクワ宣言もありましたし、森総理の二〇〇一年の三月二十六日のイルクーツクが一番近づいたと思います。しかし、その後、残念ながら、小泉政権ができて、空白の日ロ関係十年になって、今、日ロが具体的に動き始めたのは七年前から、安倍総理が復帰してからであります。
初めての小選挙区で自民党から出ていただきまして、当時、橋本政権でありましたので、私が自民党の副幹事長で選挙責任者やっておりましたので、あの当時から茂木大臣を知っている者として非常に感慨深いものがあります。
○国務大臣(菅義偉君) 当時の橋本政権は、米軍の施設・区域の安定的使用を確保することが重要であるとした一方で、御指摘の三項目合意に見られるように、米軍基地の整理縮小を求める沖縄県民の願いを厳粛に受け止め、SACO最終報告を取りまとめるなど、沖縄の負担軽減に尽力をされたと、このように思っております。
○国務大臣(菅義偉君) 当時の橋本政権というのは、米軍の施設・区域の安定的使用を確保することが重要であるとした一方において、御指摘の三項目合意に見られるように、米軍基地の整理縮小を含め、求める沖縄県民の願いを厳粛に受け止めて、駐留軍用地特別措置法の改正のほか、SACO最終合意を取りまとめられるなど、沖縄の基地負担軽減に尽力をしたものと承知をしております。
しかし、これは、橋本政権のとき真摯に取り組まれたことは私も敬意を表したいと思いますが、あれから結局それができていないのも事実であります。もうあれから何年たつんでしょうか。普天間を移設すると言って、いまだにできていないのが事実であります。我々はその事実に向き合わなければいけない。
○安倍内閣総理大臣 確かに、橋本政権において当時の大田知事とそうした交渉が行われた、また、江田委員が秘書官として支えられたこと、これは敬意を表したい、こう思っております。 我々も、しかし、これはいろいろな経緯があるわけでございまして、先ほども申し上げましたように、結果としては、大切なことはまさに成果を出すことなんだろう、こう思っております。
それから、当時、橋本政権では、五年から七年のうちに移設するということで、地元の名護市長も、最後は、私は切腹して受け入れると言ってまで官邸に来て、合意もしていました。結果は出しましたけれども、残念ながら政権は終わってしまったので、その後、紆余曲折を経てきたことは今総理もおっしゃったとおりですね。 そこで、お聞きしたいんですよ。 二十四日の県民投票。
今、国民民主党で衆議院やっています篠原孝さん、これは水産庁の企画課長のときに、私も自社さ政権の橋本政権のときに一緒になって、あのとき、戦前の国際連盟、日本が脱退しました。それ以来初めて、日韓漁業協定、旧の日韓漁業協定を、失効条項があって、それに基づいて失効させたというときの担当課長です。彼から私は様々、今回もお話を聞きました。
当時の大田知事は米軍基地強制使用のための代理署名拒否を表明していて、その混乱を収束するために橋本総理が率先をしてこの普天間基地返還ということをモンデール当時の駐日大使と取りまとめたということ、そして、県内移設を条件にしたということもむしろ橋本政権側から提案をしたことということだと認識しておりますので、その今の認識も、この間、琉球新報で、ファクトチェックにあったわけですけれども、ここもフェイクではないかということを
○木戸口英司君 その海上案ですけれども、やはり調べてみると、当時の橋本政権側から提案をされたということと私どもは認識しておりますけれども、その上でまた今のような辺野古の大規模な埋立てをして、新しい機能も付設した新基地建設という、どんどんどんどん大きくなっていっているわけですよね。 片や普天間の危険除去ということを言いながらそういう基地負担ということ、これが軽減と言えるのかということ。
大田先生は、一九七二年の沖縄返還から二十年以上放置されていた沖縄の基地負担について、一九九五年九月に起こった米海兵隊による少女に対する痛ましい事件を受けて、米軍基地提供を拒否し、当時の橋本政権と交渉して、負担軽減の流れをつくり出しました。 しかし、最大の負担軽減策であった普天間飛行場の全面返還は、期限とした二〇〇三年を十五年過ぎても、いまだ解決していません。
海部、宮沢政権、橋本政権と官邸におりましたね。その常識として、全く受け入れられません。 ワーキンググループの皆さんがしっかり働いていただく、それは大切なことですよ。しかし、ワーキンググループというのは、あくまでもワーキング、前さばきをやって、この本諮問会議に上げるための判断材料をそろえる。
特に、家族会、救う会の皆さん、活動されてことしが二十年ということでございますが、二十年前といえば一九九七年、橋本政権の時代でございまして、私は実は官邸の末席も汚しておりました。
○内閣総理大臣(安倍晋三君) 今回は、まさに消費税を引き上げたわけでありますが、減税と増税を一体としてやったわけではなく、今回はですね、まさに増税のみを行ったわけでございまして、それともう一点は、言わば前々回、橋本政権下における消費税引上げの後、アジアの経済危機等があったんですが、あのときから事実上デフレは始まってきた、その後始まってきたわけでありまして、そして、その後始まってきたことによって残念ながら
橋本政権が三%から五%に上げたときに、税を上げてまさに税収が減ったわけでありますから、リーマン級が起きなくてもそういうことはあり得るんですよ。 きょうの読売新聞を見ると、「世界経済分析へ会合」といって、世界経済がどうなっているかということを有識者と話すと言っているんです。まさにこれは消費税の増税を延期する布石じゃないかと思うし、それに期待している人もいるかと思うんですけれども、総理、どうですか。
○江田(憲)委員 八千人の海兵隊のグアムへの移転という話が出ましたが、九七年当時は、先ほど言いましたように、海兵隊の削減が沖縄からの強い要望でしたが、橋本政権もそれを受けとめることはできなかったんですね。 しかし、十年たってみれば、やはり東アジアの安全保障環境も変わります。
特に官房長官、めったにこんなことをおっしゃらないんですが、橋本政権当時のことを取り上げられて、増税しても税収が上がらないような状況では絶対消費税は上げられないなんて。これは官房長官会見ですよね。私は菅さんのお人柄はよく知っているんですけれども、こんな大胆なことはおっしゃらないんですよ。
さて、二番目、周辺事態、重要影響事態に移りますけれども、これは先ほど申し上げましたとおり、小渕政権では成立しましたが、実はこれは橋本政権で、当時の橋本総理が逐条で立案した法律でございます。
その中において、これは橋本政権のときに日米で合意をしたことでございます。この合意にのっとってまさに普天間の移設をしていく、それは辺野古に移設をしていくということで合意をしたわけでございます。これが残念ながら十六年間動かなかった。
つまり、法律事項にしてもよいと、これだけ話が入り組んでしまって、橋本政権の先ほどお話しされましたが、もう二十年たっているわけですね。
私たちはつくったんですよ、橋本政権のときに。 だから、いいですよ、これはもう時間もないですから。総理に最後、お戻りになりましたから。 総理は小泉政権下の政府系金融機関改革をお支えされた身だと思いますから、それから、天下りの例のあっせん禁止の国家公務員法の改正をされたのも安倍総理じゃありませんか。
橋本政権になりましたら、中台危機が起こりまして、中国が台湾海峡にミサイルを二発ぶち込む、米空母が展開をするという中で、日米新安保宣言がクリントン大統領との間で行われて、ガイドライン法の見直しというところまで携わらせていただきまして、やはりそれなりに先人はいろいろ苦労して、いろいろな知恵も出してきて、今の解釈が厳然としてあるわけです。